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ヨーロッパ アーカイブ

「ギリシア民主政」気になるヨーロッパの歴史・・・その1

ペルシア軍の第三回ギリシア遠征を退けたのち、ギリシアの諸ポリスは、アテネを中心としてペルシアの復讐に備えてデロス同盟を組織し、資金を出しあって海軍の増強に努めました。

一方、アテネでは、戦争で軍船の漕ぎ手として活躍した無産市民の政治的発言力が高まった結果、成年男子市民の民会が国政の最高機関となって民主政が完成しました。

将軍職などごく一部を除いて、官職や裁判の陪審員は市民から抽選で選ばれ有給制とするかわり、任期一年として再任を禁止しました。

「ギリシア民主政」気になるヨーロッパの歴史・・・その2

ペリクレスが将軍職であった前四四三~前四二九年が、その全盛期です。

この民主政は他のポリスにも広がったが、現代の民主政治と決定的に異なる点は、参政権は成年男子市民のみで女性は含まれないこと、奴隷制度を基盤にしてこの時期の市民は次第に生産から離れていたこと、代議制ではなく全市民の参加という直接民主政であったこと、などである。

やがてポリス社会の没落を迎えるが、これは二つの要因から説明できます。

すなわち、古代民主政の限界と、ポリス聞の対立の始まりでした。

「ギリシア民主政」気になるヨーロッパの歴史・・・その3

市民が次第に生産から離れ、政治的局面での活動を主とするようになり、一方で貨幣経済が進んで市民間の貧富の差が拡大すると、直接民主政は時に衆愚政治に堕する危険をちます。

対外戦争は、もし勝利をすれば貧困階層にとって絶好のチャンスです。

デマゴゴス(デマゴーグ)とは民衆指導者の意味であったが、やがてポリス共同体の危機ということを強調する無定見・無節操な扇動政治家をさすようになった。

現在のデマ(流言輩語)はここに由来します。

これが衆愚政治です。

「アテネ・スパルタの奴隷」気になるヨーロッパの歴史・・・その5

ギリシア市民は早くから奴隷を所有して、農耕・鉱山労働・土木工事などに使役していました。

前四三一年に、アテネ市民(両親がアテネ生まれの成年男子)三万五千人(全人口の一四%)に対して、奴隷は十万人(同四三%)でした。

スパルタでは、前四世紀前半、千五百~二千人の完全市民が、ペリオイコイ(半自由民)二万人・ヘイロタイ(ヘロット、隷農)五万人を支配していたという。

市民は厳格な軍事組織に編成され、市民の男児は幼時から厳しい軍事教育(スパルタ式教育)を受けました。

そうでなければ頻発するヘイロタイの反乱に対処できなかったのです。

「奴隷は生きた財産です。

……奴隷と家畜の用途は大差がありません。

なぜならばどちらも肉体によつて人生の必要に奉仕するものだから」とは、古代ギリシアが生んだ最高級の哲学者アリストテレス(前=天四~前三二二)の言葉です(『政治学』)。

「ヘレニズム時代」気になるヨーロッパの歴史・・・その1

マケドニア王国は、ポリス体制をとらない新興国で、前四世紀後半、フィリッボスニ世のとき、諸ポリスを軍事的に打倒してギリシアを統一しました(カイロネイアの戦い前三一二八)。

フィリッボスが暗殺されて王位を継いだその子アレクサンドロス三世(大王位前三三六~前三二三)は、東方のペルシアへの遠征軍を率いて出発しました(前三三四)。

エジプトを手中にし、ペルシアを滅ぼして(前三三〇)さらに西北インドまで進み、西はギリシアから東はインダス河畔におよぶ大帝国を短期間に形成しました。

各地に都市を建設してアレクサンドリアと名付けました。

「ヘレニズム時代」気になるヨーロッパの歴史・・・その2

アレクサンドロス大王は、ポリス政治ではなくオリエント的専制政治を展開したため、経済.文化の中心は東方に移り、ギリシア本土は人ロも減ってさびれました。

一方で大王は東西文明の融合という理想を掲げたため、独自の文化・思潮も生まれました。

大王がバビロンで急死して三十二歳余の生涯を閉じると、その後継者(ディアドコイ)たちによる抗争ののち、大帝国はマケドニア(アンティゴノス朝)・シリア(セレウコス朝)・エジプト(プトレマイオス朝)の三国に分裂したが、いずれもギリシア人が支配する専制国家であった。

三国は、西方から台頭してきたイタリア半島のローマに対する備えや団結を怠ったため、相次いでローマに滅ぼされた(前一四六~前三〇)。

アレクサンドロスの東方遠征に始まり、プトレマイオス朝エジプトの滅亡(前三〇)にいたる約三世紀間をヘレニズム時代というが、このように命名してこの時代の歴史的意義を積極的に評価したのは、ドイッの歴史家ド・イゼン(天〇八~八四)でした。

「都市国家ローマの拡大」気になるヨーロッパの歴史・・・その1

前十二世紀頃、印欧語系のイタリキ(古代イタリア人)がイタリア半島を南下したが、そのうちティベル川下流域を占めたのがラティニ(ラテン人)でした。

彼らは先住のエトルリア人(民族系統不明)の支配を受けていたが、前六世紀末にエトルリアの王を追放して共和政となりました。

すでにバトリーキー(貴族)とプレブス(平民)に分裂していたが、コンスル(統領)を頂点とする政務官職(任期一年で全ポストに複数任命)と元老院(貴族出身の終身議員)は、貴族が独占していた。

やがて国防の中心が騎兵から平民の重装歩兵に移ると、貴族と平民の身分闘争が始まりました。

前五世紀初めの護民官(十人)の設置、十二表法の制定(前五世紀半ば。最初の成文法)からリキニウス=セクスティウス法(前四世紀)。

コンスルの一人を平民から選出し、土地所有に上限を定めたもの)を経て、ホルテンシウス法(前三世紀。平民会の決議が元老院の承認なしに国法となる)によって、いわば平民の勝利として終結しました。

しかし、「平民の勝利」も、一面では貴族と一部富裕平民の結びつきで彼らに有利になっており、富裕平民はノビリタス(新貴族)と呼ばれる新しい支配層をつくっていました。

「都市国家ローマの拡大」気になるヨーロッパの歴史・・・その2

最初はギリシアと同様なポリス(都市国家)として出発したローマが、やがて地中海世界にまたがる大帝国に発展するには、どのような理由があり、またどのような経過をたどったのでしょうか。

前三九六年、ローマはローマの北にあるエトルリア人の最も強力な都市国家ヴェイイを征服しました。

ここは、ローマ領とされ、ママと同じトリブス(区)が新設されて、土地割り当てを受けた農民が市民権をもったまま植民者として送り出された。

これこそ都市国家ローマの対外発展(領土の拡大)の第一歩でした。

「都市国家ローマの拡大」気になるヨーロッパの歴史・・・その3

ローマに敵対したラティニ都市同盟と戦ってラティウム地方を平定した(払別三五八上削三三八)。

このとき、ラティニ系都市にはママの完全市民権を与えて植民市とし、それ以外には不完全な市民権を与えて自治市とした。

完全市民権とは、ローマの民会に出席すれば投票権を行使できるものであり、不完全喪権とは、投票権ないが、ローマ市民と同様に通婚、通商できるものである。

そのほか有力なラティニ都市とは個別に条約を結んで、同盟市としました。

ギーーシアの場合は市民権がきわめて閉鎖的であった(四五頁参照)のに対し、ローマが開放的な市民叢策を試みたことは大変轟な点です。

以上のように、市民共同体の外への拡大(植民)・ローマ市民団の契(市民権賦与)、市民権の等級付けと同盟政策(分割統治)、この三点こそ、都市国家ローマからローマ帝国に発辱る基本的要素でした。

さらに前二七二年には、南イタリアのギリシア人植民市タレントゥムを攻略して、ほぼイタリア半島を統一しました。

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